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福岡大空襲から80年 “火のトンネル”を無我夢中で走り…「いまも死者と一緒にいる感じ」 被災者が語る当時の惨劇

暮らし

12時間前

1000人を超える死者・行方不明者が出た「福岡大空襲」から6月19日で80年です。

悲惨な光景を目の当たりにした戦争体験者がいま伝えたいこととはー
19日、福岡市役所で開かれた「戦没者追悼式」。

戦争で家族を亡くした遺族ら約100人が参列し、「平和への誓い」を新たにしました。
参列者の1人、溝部嘉隆さん(85)は、あの日からちょうど80年という「節目の日」を特別な思いで迎えました。

1945年6月19日午後11時すぎ。

福岡の街に無数の焼夷弾が降り注ぎました。
空は一面真っ赤に染まり、天神や博多など町の中心部は焼け野原に。

死者、行方不明者は一晩で1000人以上に上りました。
◆溝部嘉隆さん
「(母が)家がどうなっているかと見に行ったら、『もう何もかもない』と」

溝部さんは、当時5歳で空襲に遭ったといいます。

◆溝部嘉隆さん
「6月19日の午後11時前後の記憶は鮮やかに覚えている」
現在の博多座の位置にあった「旧十五銀行」。

当時、鉄筋コンクリートのビルは安全だとされ、地域の避難場所に指定されていました。

しかし…

(当時の「旧十五銀行」の写真を指しながら)
◆溝部嘉隆さん
「ここが一般の銀行の入口。通用口も全部電気仕掛けだった」

地下室の扉は停電のため開かなくなり、炎と熱風によって避難していた60人以上が犠牲になりました。

溝部さんは、1度目の空襲警報ではここに避難するものの、警報は解除。

銀行のすぐ近くにある自宅に戻っていたといいます。
◆溝部嘉隆さん
「家に帰って寝ていたら、空襲警報。母親は姉と私の手を引っ張って電車道に出たら、火がどんどん“火のトンネル”に…そんな状況だった。その時は無我夢中だから、怖いとかそういう感覚がなくて、とにかく『東公園まで走ろう』と。5歳ですよ、だから途中転んだり、ちょっと立ち止まったりしても一生懸命」
福岡大空襲を体験した溝部さん。

実は、父親を戦争で亡くしています。

(父親の遺影に向かい)
◆溝部嘉隆さん
「大体こうして挨拶をして、『元気よ』と呼びかける。それが日課ですね」

父・嘉平さんは溝部さんが2歳になる1カ月前に出征。

ガダルカナル島の戦いで戦死しました。

溝部さんは、これまでに2度、ガダルカナル島を訪れています。
(ガダルカナル島での写真を見ながら)
◆溝部嘉隆さん
「厚労省の職員がジャングルの中でこういうふうに祭壇を設ける。たぶん(亡くなったのは)この辺だろうということで」

父のことは覚えていませんが、自身の中に残る福岡大空襲の記憶と父が経験したであろう戦争を重ねてしまうといいます。

◆溝部嘉隆さん
「今も頭がいっぱいです。悔し涙とかではなくて、自然に出るんですね。遺族としては一言も声が出ない。まさに死者と一緒にいる感じ。どうしても、戦争と同時に身内のなかに起こった惨劇、特に戦争で戦没された遺族の話は出てこざるを得ない」
あの戦争から80年。

溝部さんがいま最も伝えたいこととはー

◆溝部嘉隆さん
「戦争はあってはいけない。戦争というのは人間と人間の殺し合いですからね。戦争を始めることによって住まいも奪われるし、もちろん戦争に出ていく家族も亡くなるし。本当にバカなことをしたなと」

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