「武闘派ヤンキーの町」から羽ばたいた育成の星 ソフトバンク牧原大成が抱く”現役最後”の野望
ホークス
2024/09/24 20:00
ソフトバンクが4年ぶりのリーグ優勝を達成した。開幕前に「セカンド一本」を公言していた牧原大成内野手(31)は故障離脱の期間がありながらもプロ14年目で初めて二塁しか守らず、ハイレベルなプレーで若手も台頭してきたチームをけん引した。育成時代からチーム屈指の負けず嫌いとして知られる男は何を思い、どう成長し、これからどんな道を歩もうとしているのか。Youtube「ももスポチャンネル」で配信中の独占インタビューを担当したディレクターが、取材後の思いをつづった。
* * * * *
福岡県久留米市田主丸町。僕は、この町を少しだけ知っている。
県南の筑後地区で、柔道の東京オリンピック金メダリスト素根輝選手の故郷。巨峰、柿、いちごなどフルーツが有名だ。「河童(かっぱ)の町」として知られ、JR田主丸駅は河童の形をしている。
一度でも田主丸町を訪れたことがある人のイメージはだいたいこんな感じではないかと思うが、僕が抱いているイメージは少し違う。「武闘派ヤンキーの街」。これだった。
30年以上前、僕は田主丸町の隣に位置する吉井町で育った。まだ田主丸が久留米市と合併する前、当時はまだいわゆる「ヤンキー」の文化が存在していて、地元の中学にも怖い先輩がたくさんいた。
「〇〇先輩がタッチュー(田主丸中)のヤツにやられたばい!」
夏祭りでのいざこざ、卒業式後の決闘…。エピソードを挙げればきりがないが、僕らにとってのライバルは間違いなく「田主丸」だった。
だから牧原の出身地を知った時、少しだけ背筋が凍るような思いがした。
僕の中で田主丸の記憶がよみがえる。
牧原のメンタルが強いことは、容易に想像できた。
果たして、プロ入り後の牧原は想像通り、いや想像以上に強かった
力強くダイヤモンドを駆け回り、時には豪快なアーチをスタンドにたたき込む。
何度ポジションを脅かされても、そのたびに必ずはい上がってくる。
プロ野球選手としては小柄な172センチのサムライは、人知れず味わった数え切れないほどの苦悩を糧に自分の居場所をつかみ取った。
育成からの下剋上。そのストーリーはもはや説明不要として、その過程を支えた「むき出しの強靭(きょうじん)な精神力」を形にする。それが、今回のインタビューの最大のテーマだった。
「プロ野球選手になりたいとも、なれるとも思っていなかった」
そう振り返る牧原の幼少期はまさに「スパルタ」だった。小学校から中学校までは所属するチームの練習とは別に毎日夜に自宅で練習。父が用意した打撃マシンを相手に延々と打ち込んだ。設定されたノルマをこなさなければ眠ることさえ許されなかったという。
「遊びたい(年ごろ)じゃないですか? みんなが遊んでいる中で、自分だけ野球の練習。何回もやめたいと思ったけど、今思えばやってきて良かったと思う」
シーズン中、牧原の球場入りやグラウンド入りはいつも早い。高確率で、チームの中で一番乗りだ。厳しい世界で生き残るためにさまざまな役割を求められてきた男は練習量も多い。ホームで試合がある日はもちろん、比較的時間に余裕のあるビジターでも、チーム本体より先に球場入りする姿を何度も見た。
「好きなポジションなんかなかったっすね」
今シーズンこそセカンド一本で起用されているが、これまでの野球人生において、ひとつのポジションで出続けたことはない。中学ではキャッチャー、高校は外野から始まり、サード、そしてセカンド…。一年ごとに違うポジションを守った。
「その時からユーティリティの人生は始まっていたのかもしれないですね」
そう言ってにやりと笑ったが、内心ドキッとした。牧原本人が「ユーティリティ」という言葉を嫌うことを知っていたからだ。
言葉自体が悪いのではない。人生をかけて定位置を奪い合う世界で、簡単に「ユーティリティ」と表現されることを嫌う。メディアが投げかける質問の安易さは、プロのアスリートにはすぐに見抜かれる。
牧原のさらにすごいところは、相手の言葉の意図を見抜くだけではなくはっきり表現するところだ。そこに「自分を良く見せたい」という思いはない。メディアに対してはもちろん、ファンに対してもその姿勢は変わらない。
「(背番号)3桁の時に全くサインをもらいに来てくれなかった人が、支配下になったら来た。『なんで支配下にならないと来ないんですか、僕、書きません』と言いました」
牧原大成の言葉はいつも胸に響く。信念があるからこそだ。だからオブラートに包むことはない。聞き映えのいい「優等生っぽさ」もない。
応援してくれる人には最大級の感謝を、誹謗中傷する人間には臆することなく苦言を、カメラの前でも普通に発する。決して自分を守らない。それだけで、プロの世界を生き抜いてきた覚悟がわかる。
「野球がなくなった時の自分のイメージが湧かない。パソコンもできなければ勉強もできない。今、このプロ野球が大事なんです。ファンのためというのはもちろんあるけど、自分の家族が生きていくため。家族を支える大事な仕事なんです」
入団時の背番号は129。支配下入りと同時に69、7年目には36に変わり、現在は1桁の8だ。背中が物語る成り上がりの変遷。やはり、並みの精神力ではない。
「ホークスで(現役が)終わって、もし日本の野球がもうできないとなったら、1年、どこか海外でやってみたい。メジャーじゃなくてもどこでもいい。日本の野球は恵まれているじゃないですか。最初に始まった感じで終わるのもいいのかなと」
田主丸生まれの強き男。
きょうもホークスファンは、牧原大成に夢を見る。(内藤賢志郎)
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福岡県久留米市田主丸町。僕は、この町を少しだけ知っている。
県南の筑後地区で、柔道の東京オリンピック金メダリスト素根輝選手の故郷。巨峰、柿、いちごなどフルーツが有名だ。「河童(かっぱ)の町」として知られ、JR田主丸駅は河童の形をしている。
一度でも田主丸町を訪れたことがある人のイメージはだいたいこんな感じではないかと思うが、僕が抱いているイメージは少し違う。「武闘派ヤンキーの街」。これだった。
30年以上前、僕は田主丸町の隣に位置する吉井町で育った。まだ田主丸が久留米市と合併する前、当時はまだいわゆる「ヤンキー」の文化が存在していて、地元の中学にも怖い先輩がたくさんいた。
「〇〇先輩がタッチュー(田主丸中)のヤツにやられたばい!」
夏祭りでのいざこざ、卒業式後の決闘…。エピソードを挙げればきりがないが、僕らにとってのライバルは間違いなく「田主丸」だった。
だから牧原の出身地を知った時、少しだけ背筋が凍るような思いがした。
僕の中で田主丸の記憶がよみがえる。
牧原のメンタルが強いことは、容易に想像できた。
果たして、プロ入り後の牧原は想像通り、いや想像以上に強かった
力強くダイヤモンドを駆け回り、時には豪快なアーチをスタンドにたたき込む。
何度ポジションを脅かされても、そのたびに必ずはい上がってくる。
プロ野球選手としては小柄な172センチのサムライは、人知れず味わった数え切れないほどの苦悩を糧に自分の居場所をつかみ取った。
育成からの下剋上。そのストーリーはもはや説明不要として、その過程を支えた「むき出しの強靭(きょうじん)な精神力」を形にする。それが、今回のインタビューの最大のテーマだった。
「プロ野球選手になりたいとも、なれるとも思っていなかった」
そう振り返る牧原の幼少期はまさに「スパルタ」だった。小学校から中学校までは所属するチームの練習とは別に毎日夜に自宅で練習。父が用意した打撃マシンを相手に延々と打ち込んだ。設定されたノルマをこなさなければ眠ることさえ許されなかったという。
「遊びたい(年ごろ)じゃないですか? みんなが遊んでいる中で、自分だけ野球の練習。何回もやめたいと思ったけど、今思えばやってきて良かったと思う」
シーズン中、牧原の球場入りやグラウンド入りはいつも早い。高確率で、チームの中で一番乗りだ。厳しい世界で生き残るためにさまざまな役割を求められてきた男は練習量も多い。ホームで試合がある日はもちろん、比較的時間に余裕のあるビジターでも、チーム本体より先に球場入りする姿を何度も見た。
「好きなポジションなんかなかったっすね」
今シーズンこそセカンド一本で起用されているが、これまでの野球人生において、ひとつのポジションで出続けたことはない。中学ではキャッチャー、高校は外野から始まり、サード、そしてセカンド…。一年ごとに違うポジションを守った。
「その時からユーティリティの人生は始まっていたのかもしれないですね」
そう言ってにやりと笑ったが、内心ドキッとした。牧原本人が「ユーティリティ」という言葉を嫌うことを知っていたからだ。
言葉自体が悪いのではない。人生をかけて定位置を奪い合う世界で、簡単に「ユーティリティ」と表現されることを嫌う。メディアが投げかける質問の安易さは、プロのアスリートにはすぐに見抜かれる。
牧原のさらにすごいところは、相手の言葉の意図を見抜くだけではなくはっきり表現するところだ。そこに「自分を良く見せたい」という思いはない。メディアに対してはもちろん、ファンに対してもその姿勢は変わらない。
「(背番号)3桁の時に全くサインをもらいに来てくれなかった人が、支配下になったら来た。『なんで支配下にならないと来ないんですか、僕、書きません』と言いました」
牧原大成の言葉はいつも胸に響く。信念があるからこそだ。だからオブラートに包むことはない。聞き映えのいい「優等生っぽさ」もない。
応援してくれる人には最大級の感謝を、誹謗中傷する人間には臆することなく苦言を、カメラの前でも普通に発する。決して自分を守らない。それだけで、プロの世界を生き抜いてきた覚悟がわかる。
「野球がなくなった時の自分のイメージが湧かない。パソコンもできなければ勉強もできない。今、このプロ野球が大事なんです。ファンのためというのはもちろんあるけど、自分の家族が生きていくため。家族を支える大事な仕事なんです」
入団時の背番号は129。支配下入りと同時に69、7年目には36に変わり、現在は1桁の8だ。背中が物語る成り上がりの変遷。やはり、並みの精神力ではない。
「ホークスで(現役が)終わって、もし日本の野球がもうできないとなったら、1年、どこか海外でやってみたい。メジャーじゃなくてもどこでもいい。日本の野球は恵まれているじゃないですか。最初に始まった感じで終わるのもいいのかなと」
田主丸生まれの強き男。
きょうもホークスファンは、牧原大成に夢を見る。(内藤賢志郎)